戦後、高度成長とともに

戦後、高度成長とともに仕事の幅も広がって

薫の長男・能弘(1933年)は、幼い頃からたった一人で懸命に働く父親の姿を見て育った。
中学生の頃には、薫の手伝いで現場にも足を運ぶようになっていた。
学校が冬休みのある日、まだ暗い午前5時頃に、一斗缶を両手に持って歩いていた父子は、泥棒と間違えられ、警察官に呼び止められる。
荷物を調べられ、前日からきちんと整理して入れていた道具類がグチャグチャにされてしまった。
このとき能弘は泥棒に間違われた悔しさよりも、時間がもったいなくて仕方がなかったと後日、振り返っている。
それほどまでに時間を惜しみ、働く父子であった。

しかし、薫は、能弘に自分と同じような苦労は味わわせたくないと考えていたようだ。
昭和27年(1952年)に神戸市立神港高校を卒業した能弘は、銀行に入行。
銀行マンとしての将来を有望視されていたが、過労で薫が倒れたため、わずか2年で退職し、家業を継ぐことになる。

敗戦から9年、日本は焼け跡から驚異的なスピードで立ち直りつつあった。
薫は能弘に塗装の仕事を基本から、徹底して厳しく教え込んだ。
父親ゆずりの器用さと真面目さで、能弘は父の技術と職人気質を身につけていった。
能弘は早朝から自転車をこいで西は須磨区塩屋町、東は芦屋市まで出かけ、塗装や看板書きなどの仕事を薫とともにコツコツとこなした。荷物が多い時は、自転車の横に荷台をつけて、オート三輪のようにして運んだ。

昭和30年代に入ると、日本の高度成長に伴い受注が増え、梶川塗装にもモータリゼーションの波が押し寄せた。
昭和36年(1961年)頃から自動二輪車、軽三輪自動車、そして軽四輪自動車と階段を一段ずつ上がるように乗り換えていった。

梶川塗装では、店舗の立て看板を作る仕事も多かった。
薫が看板本体を製作し、字が上手な能弘がそこに文字を書くという父子の共同作業で、数多くの看板を作り出した。
その頃に受注した日本最古のゴルフクラブとしても知られる神戸ゴルフ倶楽部のコンペの看板書きは、今も能弘が手掛けている。

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